【本圀寺の変】なぜ義昭は襲撃された?光秀奮戦と信長上洛の真相を徹底解説

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【本圀寺の変】なぜ義昭は襲撃された?光秀奮戦と信長上洛の真相を徹底解説
【本圀寺の変】なぜ義昭は襲撃された?光秀奮戦と信長上洛の真相を徹底解説
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🎵 【本圀寺の変】なぜ義昭は襲撃された?光秀奮戦と信長上洛の真相を徹底解説

戦国史における大転換点の一つでありながら、意外と全貌が知られていない大事件が「本圀寺の変(ほんこくじのへん)」です。織田信長の電撃的な上洛によって第15代将軍に就任した足利義昭。その平穏も束の間、わずか数か月後に京都の仮御所が突如として敵軍に包囲され、血で血を洗う大激戦が繰り広げられました。

将軍暗殺の危機に立ち向かった明智光秀や細川藤孝らの決死の防戦、そして急報を受けた織田信長が見せた驚異的な大強行軍など、戦国ドラマさながらのドラマが凝縮されています。三好三人衆の狙いや事件の背景、その後の政局に与えた決定的な影響まで、一次史料と最新の研究知見を交えて徹底解説します。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 要点1:永禄12年(1569年)1月、信長が美濃へ帰国した間隙を突き、三好三人衆が将軍・足利義昭の仮御所「六条本圀寺」を急襲した事件。
  • 要点2:明智光秀や細川藤孝らの決死の籠城と援軍の奮戦で義昭を守り抜き、信長も雪中をわずか2日で駆けつけ敵を撃退。
  • 要点3:事件の脆弱性を痛感した信長は、堅固な「旧二条城」の突貫工事を進め、畿内の軍事支配力を急速に固める転機となった。

【3分でわかる】本圀寺の変とは?事件の概要と歴史的位置づけ

本圀寺の変(ほんこくじのへん)とは、永禄12年1月5日(1569年1月31日)に京都で発生した、室町幕府第15代将軍・足利義昭に対する襲撃事件です。

前年の永禄11年秋、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たし、それまで畿内を牛耳っていた三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)を阿波(徳島県)へと敗走させました。義昭は晴れて将軍に就任しますが、正式な将軍御所が完成するまでの間、京都・六条にあった日蓮宗の大本山「本圀寺」を仮御所として定めていました。

信長が主力部隊を率いて居城である美濃・岐阜城へ一時帰国したまさにその隙を突き、巻き返しを図る三好勢が1万人規模の大軍で六条本圀寺を包囲。義昭の身柄を奪還・殺害しようと仕掛けたクーデター未遂が、この本圀寺の変です。

なぜ足利義昭は狙われたのか?三好三人衆が仕掛けた襲撃の理由

事件が起きた直接の動機は、三好三人衆と阿波三好軍による「畿内における失権の奪還」と「幕府権力の再掌握」にあります。

信長の上洛によって阿波へ落ち延びていた三好三人衆は、前将軍・足利義栄(よしひで)を擁立して畿内を支配していました。しかし義栄が上洛直前に急死し、信長の後押しを受けた義昭が将軍に就任したことで、彼らは京都における発言権と利権を一挙に失うことになります。

「信長不在の京都ならば、警護の手薄な本圀寺を急襲して義昭を討ち取れる」――そう判断した三好三人衆は、阿波の三好康長や斎藤龍興(元美濃領主で信長に追放された人物)ら旧反信長勢力を結集。信長が雪深き美濃に足止めされているタイミングを逆算し、義昭政権を根底から覆すための乾坤一擲の奇襲に打って出ました。

【時系列で追う経緯】三好勢の急襲から明智光秀・細川藤孝らの籠城戦へ

襲撃の一報が入った六条本圀寺の内部は緊迫を極めました。当時、義昭の周囲にいた防衛兵力はわずか2,000人足らず。圧倒的劣勢の中で防衛の指揮を執ったのが、幕臣として頭角を現しつつあった明智光秀細川藤孝(幽斎)、三好義継、織田左近らでした。

三好軍は本圀寺の門を破り、寺の四方から猛烈な銃撃と突入を仕掛けます。これに対し、明智光秀らは寺の堅牢な土塀や総門を盾にして徹底的な防戦を展開。寄せ手の突撃を幾度も押し戻し、将軍の間近への侵入を食い止め続けました。

戦闘が長引く中、近隣にいた織田方の武将・池田勝正や三宅長盛、伊丹親興、荒木村重らが救援に駆けつけ、桂川周辺で三好軍の背後を強襲(桂川の戦い)。内外からの挟撃を受けた三好三人衆は耐えきれず、夥しい死傷者を出して阿波方面へと撤退を余儀なくされました。

織田信長「驚異の雪中大強行軍」|岐阜からわずか2日で駆けつけた舞台裏

この戦いを語る上で欠かせないのが、急報を受け取った織田信長の規格外の行軍スピードです。

本圀寺襲撃の一報が美濃・岐阜城の信長のもとに届いたのは1月6日のことでした。当時、美濃から京都への道中は大雪に見舞われ、通常の軍勢であれば3〜4日はかかる悪路でした。

しかし信長は報を受けるや否や、わずか10数騎の側近のみを連れて即座に出陣。吹雪が吹き荒れる中を昼夜兼行で馬を飛ばし、岐阜から京都までの約130キロメートル余りをわずか2日(1月8日着)で駆け抜けたと記録されています(『信長公記』)。信長が京都に到着した時点で戦闘は終息していましたが、この凄まじい決断力と機動力は、京都の朝廷や幕臣、畿内の国人領主たちを大いに震撼させました。

【徹底比較】「本圀寺の変」と「永禄の変」は何が違うのか?

戦国史に不慣れな読者が混同しやすい事件に「永禄の変」があります。双方とも京都で将軍が三好勢に襲撃された事件ですが、その中身と結果は大きく異なります。

項目永禄の変(1565年)本圀寺の変(1569年)
標的となった将軍第13代将軍・足利義輝第15代将軍・足利義昭
襲撃側の首謀者三好義継、三好三人衆、松永久通三好三人衆、阿波三好軍、斎藤龍興
防衛側・救援勢力義輝自ら奮戦するも孤立無援明智光秀、細川藤孝、池田勝正ら(織田方)
結果将軍義輝が討死(室町幕府の失墜)義昭救出に成功・三好軍の敗走

永禄の変では後ろ盾となる強力な軍事勢力が存在しなかったため将軍が惨殺される悲劇となりましたが、本圀寺の変では信長という強力な軍事機構と防衛ネットワークが機能したことで、最悪のシナリオを回避できた点が決定的な違いです。

事件の舞台となった「本圀寺の場所」と堅固な「二条城」築城への決定打

事件の舞台となった六条本圀寺は、現在の京都市下京区堀川五条から六条付近に広大な寺領を構えていた大寺院でした(※現在は山科区に移転)。堀や土塁を備えた防衛力の高い伽藍構造だったとはいえ、あくまで宗教施設であり、本格的な合戦を想定した要塞ではありませんでした。

寺院での防衛に限界を感じた信長は、事件直後から直ちに将軍専用の堅城「二条城(旧二条御所)」の築城を号令します。

信長は畿内の大名・国人に普請を命じ、約70日という超突貫工事で強固な石垣と重層の櫓、水堀を備えた本格城郭を完成させました。これにより義昭の身の安全を確保すると同時に、京都における織田軍の軍事拠点を確立し、京都支配を盤石なものへと昇華させたのです。

【本圀寺の変】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:明智光秀はこの戦いでどのような活躍をしたのですか?
A1:明智光秀は足利義昭の側近幕臣として本圀寺内に詰めており、細川藤孝らとともに防衛戦の最前線で指揮を執りました。寡兵で大軍の侵入を食い止めたこの武功により、信長および義昭からの信頼を急速に高め、織田家臣団の中でも頭角を現す大きな契機となりました。

Q2:本圀寺は現在どこにありますか?当時の遺構は見られますか?
A2:当時の六条本圀寺は、昭和期に京都市山科区御陵へと移転しました。下京区の旧地周辺(猪熊通六条付近)には現在「大本山本圀寺跡」の石碑が建立されており、かつてこの地で激戦が繰り広げられた歴史を伝えています。

Q3:なぜ三好三人衆は信長が帰国した直後を狙えたのですか?
A3:京都周辺の寺社勢力や旧幕府勢力の中には三好方に通じる内通者が多数存在しており、信長の出立情報や本圀寺の警備状況が逐一阿波へ漏洩していたためです。冬場の豪雪で美濃からの援軍は間に合わないという緻密な計算の上で決行された奇襲でした。

まとめ:本圀寺の変が決定づけた織田信長と足利義昭のパワーバランス

本圀寺の変は、単なる将軍襲撃未遂事件にとどまりません。この事件を通じて、足利義昭は「織田信長の軍事力がなければ自らの命すら守れない」という現実を突きつけられました。

一方の信長は、将軍救出の立役者として京都での正当性を不動のものとし、二条城築城を通じて京都支配の実権を掌握していきます。しかし、この軍事的依存関係が深まるにつれ、幕府の権威を取り戻したい義昭と、実力支配を進める信長との間の決定的な亀裂が生まれる発火点ともなりました。

明智光秀の躍進、二条城の誕生、そして後の信長包囲網へと連なる戦国史のドミノ倒しは、まさにこの六条本圀寺の激戦から加速していったのです。 (出典: 本 圀寺 の 変(Yahoo!ニュース)

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